珠洲焼は、12世紀後半から15世紀末にかけて能登半島の先端・珠洲郡内(現在の珠洲市周辺)で作られた中世を代表する焼物です。
14世紀には日本列島の四分の一に広がるほど隆盛を極めましたが、戦国時代に忽然と姿を消しました。
以来、「幻の古陶」とよばれてきた珠洲焼ですが、わずかに残された断片からその姿が明らかになるにつれ、素朴で力強い美しさが人々の心を魅了し、約400年の時を経て再び発祥の地によみがえりました。
消えた珠洲焼の謎
珠洲焼は、古墳時代中期に大陸から伝わった須恵器(すえき)の流れを汲んでいるといわれています。
鉄分を多く含む珠洲の土を、粘土紐で巻き上げた後に形を整え、それを1200度以上の高温で焼く「燻べ焼き(くすべやき)」という技法で作られ、コーティングの役割を果たす釉薬は使わず、高温で溶けた灰が自然の釉薬となり、素地も炭化して珠洲焼独自の灰黒色の艶を生み出します。
日本各地に広まった珠洲焼は、15世紀後半に突然途絶えてしまいますが、その理由については、今日まではっきりとは解明されていません。
当時台頭してきた他の窯のように大量生産に対応できなかったためともいわれていますが、作り手が確保できなかったのか、なんらかの事情で素地となる材料が手に入らなくなったのか、あるいはあえて大量生産を拒んだのか…今なお多くの謎に包まれています。
受け継がれる黒の系譜
昭和30年以降になると、珠洲一円で40基ほどの珠洲焼窯跡が発掘されました。
調査や研究が進むとともに、幻の古陶をなんとかもう一度この地に復活させたいと願う地元の人々の情熱が原動力となり、試行錯誤の末、昭和53年、珠洲市陶芸センターにおいて、ついに珠洲焼は長い眠りから目覚めたのです。
よみがえった珠洲焼が放つ、深い黒の輝きや手仕事ならではのあたたかみ、謎に満ちた存在そのものが人々の心を捉え、再興以来、珠洲焼に情熱を注ぐ現代の陶工たちが誕生。
遥か昔に、この地で陶器づくり一筋に生きた古の陶工たちの魂を受け継ぎ、新たな珠洲焼の歴史を刻んでいます。
昭和51年1月 珠洲焼復興事業を珠洲商工会議所に委託
昭和51年9月 石川県工業試験場へ研修生として能村耕二氏を派遣
昭和52年6月 陶芸家・小野寺玄氏の「珠洲土壷」が文部大臣賞を受賞
昭和53年8月 「陶芸実習センター(陶工育成所)」完成
昭和54年2月 「再興珠洲焼」初窯出し
昭和63年4月 後継者育成(17人)、体験受入開始
〃 「珠洲焼館(作品の販売所)」オープン
平成元年 珠洲焼館の管理が(有)鉢ヶ崎陶芸から(財)鉢ヶ崎リゾート振興協会に譲渡
昭和元年4月 「珠洲市立珠洲焼資料館」オープン
平成6年 珠洲焼館が現在の場所に移転
平成7年4月 陶芸実習センターが現在の場所に移転
平成8年4月 「珠洲焼研修塾」開始(塾生数17人、最長4年間)
平成22年4月 珠洲市陶芸センターが市直営となり、「基礎研修課程」が開設される
平成25年4月 珠洲焼館が(財)鉢ヶ崎リゾート振興協会から珠洲市直営となる
平成27年3月 珠洲焼館リニューアルオープン